1,まずはモデルを
人間に「できること」を単純化します。
ABCDEの5つの能力が人間にあるとします。
でも、全てをもっている人間はいません。
どれか一つをもっている人は他の4つは失うのです。
世の中とはそういう風にできています。
では
自分の能力・ポジションにコンプレックスをもつかプライドをもつかは
どこで分かれるのか。
Aができる人間は
・Aができることにプライドをもつ
か
・B〜Eができないことにコンプレックスをもつ
かのどちらかだと思います。
恐らく、良識のある人間であれば自分にはできることとできないこととがあり、もし、AではなくBができるのであれば今できるAはできなかったかもしれないということは分かると思います。
2,もう少し具体的に−できる・できないは隣り合わせ
話が抽象的ですね。
例えば、若くしてスポーツ選手になった人間は
「スポーツをする」
という能力はありますが
「その年代において会社のような組織で仕事をする」
ということはできません。
一つを選べばもう一つが立たない典型的な例です。
このようなことはあらゆる場面に当てはまると思います。
理系に進めばその間文系には進めない
就職すれば大学院にはいけない
大学院にいけば就職はできない
勉強すればその間は働けない
・・・
「できる」と「できない」は常に隣り合わせなんです。
3,人は果たして「できる」のか「できない」のか
じゃあ、人はどちらに着目すればよいのでしょうか?
「できる」に着目して他人を見下すか
「できない」に着目して自分を卑下するか
どちらを選ぶかという問題にもなります。
極端な場合。
4,教育が有無弊害−コンプレックス
多分一番いいのは
自分の「できる」にプライドをもちながらも
他人の「できる」にも目を向け
お互いを尊重していくことでしょう。
しかし。
世の中はそ上手くはいきません。
人は「あやまちを正す」ように教育をされます。
そうだとすれば
「できない」は正さなければいけないことになります。
そうなってしまうと
自分の「できる」には目を向けず
他人の「できる」すなわち自分の「できない」についてコンプレックスをもつ
そんな人間ができあがるのではないでしょうか。
能力を効率よく高めるためには
「できない」を「できる」に変えることは大切です。
でも
この世の中では全てが「できる」に変わらない以上
そんな教育に育てられた人間は
一生「できない」ということにとらわれながら
不幸な人生を歩むのではないでしょうか。
「弱点補強型教育」=「不幸生産機」
という図式ができあがります。
5,コンプレックスにとらわれた人間の行く先は・・・
そうなっていくと
人は
「できない」を見なくてすむように
同じ「できる」を持つ人とだけ交流すりょうになります。
同業者とのみ交流をもち、狭いコミュニティーに属することになります。
他人はこれを不幸だと言うかもしれません。
でも、当人達にとってはこれが「幸福の最大値」なのでしょう。
何しろ、これこそが自分の「できる」を直視し「できない」から目を背ける唯一の方法なのだから。
<同族コミュニティー>
弱った現代人が逃げ込む場所です。
皆さん。自分の心が弱ったとき
気が付けば、自分と似たような境遇にあると感じる人間を
求めていたりはしませんか???
コメント
はじめまして
自分にないものを持っている他人を含めて全ての人間の存在を尊敬・尊重することができたら素晴らしいですよね。
なかなか,難しいとは思いますが,たとえ時間がかかったとしてもそのような人間になれたらな・・・と思います。
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